2015年10月23日金曜日

燃え残った千羽鶴

 小学校の通学路に毎朝欠かさず黄色い旗を持って子ども達の登校時間に立っていたおばさんがいた。
みんなで緑のおばさんと呼んでいた。
誰が名づけたかは分からないけれど高学年の子がそう呼んでいるので自然と自分達もそう呼ぶようになった。
それこそ雨が降っても雪が降りそうな凍てついた朝でも必ず学校がある日は同じ場所に立って子ども達の登校を見送ってくれていた。

私たちは毎朝、緑のおばさんに「おはようございます」と挨拶をしたものだった。
そうすると「はい。おはようございます。気を付けていってらっしゃい」とにこやかに答えてくれた。
挨拶しかしたことがないおばさんだったけれどみんなおばさんが大好きだった。
同時にそこにいるのが当たり前だった。
いつもニコニコを笑って黄色い旗を軽く振ってくれていたことを覚えている。
ただそこに居るだけで安心できた。
月日が流れ卒業する子もいれば入学する子もいる。中学校へ進学してもこの道を通って学校へ行く中学生達もいた。
やっぱりニコニコと見送ってくれていた。

いったい何人の子どもたちを見送っていたのだろう。

ある日、緑のおばさんが病気で入院した。その事を知った子ども達は早く良くなってくれるにみんなで千羽鶴を折った。
いびつな鶴もあれば綺麗な鶴もある。いろんな色の鶴が仕上がった。

代表者の子ども数人が出来上がった千羽鶴を緑のおばさんが入院している病院に行き手渡した。
緑のおばさんは涙を流して喜んでくれたらしい。
大事にするとも言ってくれた。ベッドのそばに看護師さんに手伝ってもらいながら千羽鶴を吊るしていつでも眺められるようにしたと聞いた。
渡した子ども達も早く退院して欲しい事を伝え病院を後にする。

その数日後、緑のおばさんは急死した。病名は知らない。子どもの自分が知らなかっただけかもしれないけれど。
お葬式の話が子ども達の間で話題になった。子どもが世話になったと数人の保護者も葬儀に参列した。
棺の中には子ども達が贈った千羽鶴もご家族の手で入れられた。

緑のおばさんは火葬され荼毘にふされた。
骨になった緑のおばさんを見て親族や数人の保護者は息をのんだ。

燃えてなくなるはずの千羽鶴が入れたままの姿で残っていたからだ。
その後の千羽鶴の行方は誰にも知らされることは無かった。
同時私はあまりにも子どもだったため知ることが出来なかっただけかもしれない。

何故一緒に千羽鶴を持って逝ってくれなかったのだろう。
今となっては知る由もない。

やはり自分がまだ両手が余る年齢だったから分からないことが多かったのだろう。
緑のおばさんの立っていた空間は色濃くそこにあるのに寂しい場所になってしまった。

ただ「行ってらっしゃい」と言う緑のおばさんの笑顔だけは心に残っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿

感想等お聞かせください。
メールもあります。プロフィールからお入りください